ジニスコーヒー誕生秘話 #3

ジニスコーヒー誕生秘話#1_original

よくよく考えてみると、結婚した私たちは二人とも無職。
勤めていた職場を退職した私と、日本での留学期間が終わりブラジルでの就職活動を始めたペリ。

留学期間を終え一足先にブラジルへ戻ったペリに待ちうけていたのは、厳しい現実でした。
大学で働きたかった彼は、ブラジル国内20以上の大学に足を運びましたが、すべて門前払い。貯金を崩しながら生活していました。「日本から葉子が来るまでに、生活費を稼げるようになっていなければいけない!」というプレッシャーと、なかなか仕事が見つからない焦り。
貯金の残は、どんどん少なくなっていきました… 

ブラジルへ戻って5か月後、ペリは歯科矯正クリニックを開業することを決めました。しかし開業したから患者さんが来るというわけでもなく、収入は不安定。そうしているうちに、私のブラジル行きが決定しました。なんとか歯科矯正の専門学校で非常勤講師として働けることになったのは、ペリがブラジルへ戻って8カ月後のことでした。貯金の残がゼロになる寸前だったそうです。

そして始まった、私たち二人のブラジル新生活&新婚生活。

『aperta o cinto! ベルトを締めよう!』ペリがよく言っていた言葉です。意味は「財布の口を絞めよう=お金を節約しよう」。私にとっては、新しい環境での結婚生活のスタートだったので、大変だった全く記憶はありません。口座の残金を知らなかったというのもあるのかもしれませんが(笑)
ペリと一緒に生活できる毎日を満喫していました。とはいっても「ポルトガル語があまり話せない、友人がいない、仕事がない、お金がない」が3カ月続き、次第に神経質になっていきました。自覚はありませんでしたが、ペリは『葉子は、このままではいけない』と感じていたそうです。

「そうだ!日本語を教えよう!」
チラシを作り、スーパーマーケットや大学の掲示板に貼り始めました。
初めての生徒は、日本への留学が決まっていたブラジル人の男子大学生。授業の計画を立て、教材を作り、生徒の家にバスで通う。「誰かのために役に立てている」と実感できる喜びは、ブラジル生活をより素晴らしいものにしてくれました。そして、一人からスタートした日本語教室は少しずつ生徒が増え、100人になりました。同時に友人も増え、日本文化を広める活動にも参加するようになりました。寂しかった遠距離新婚生活の9月間があったからこそ学べた茶道や着付け。これらが、後にとても役に立ちました。

結婚3年目の2005年、ペリは、より大きな歯科矯正のクリニックを開くことを決意しました。専門学校での仕事も忙しくなり、国立大学で非常勤講師として働くようにもなっていました。その後、国立大学の採用試験に合格し、念願の大学教師に!この頃から、少しずつ経済的にも余裕が出てきました。

ところで、「日本へ帰りたい!」と言っていたペリですが、時間と共に想いは薄れてきていました。経済的に安定してきたこと、そして私もペリも環境に慣れてきたこと。それでも「日本へ行くかもしれないから…」と、広いアパートに引っ越すのを躊躇したりしていました。

そして、お互いに忙しくなったペリと私は、昼食後一緒にコーヒーショップでコーヒーを楽しむようになりました。よく飲んでいたのは、エスプレッソとカプチーノ。当時のブラジルでは、ドリップコーヒーは家で飲む飲み物。外で飲むのはエスプレッソという文化でした。今では、コーヒーショップでドリップコーヒーが飲める文化へと変わってきています。

今回の写真:
日本語学校の生徒たちとの一枚。この日の授業は、浴衣でお薄茶を振舞いました。写真に写っている中の4人が、数年後に文部科学省の留学生として日本へ留学しました。漫画やアニメ、日本のドラマや日本食が大好きなブラジル人が多かったな~

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